放流?②
本州でのブラックバスの問題、北海道でのブラウンの問題というのは、結局のところ水産業界と釣り業界の、漁師と釣り人の対立だよね。表面的には、環境問題などが取り沙汰されるけど、根っこにあるのは業界同士のぶつかり合いだよね。ブラックバスをめぐっての騒動や、某雑誌の記事に見られるブラウンに関する協議会の内容は、詰まるところは漁師と釣り人が、それぞれの対象魚に対する影響を巡って対立していると言えるのでは?
少なくとも、某雑誌がブラウンのことを記事にするとき、いつも不可解に感じるのが、すでに生息環境の回復をあきらめているかのようなことを書いていること。
「ブラウンを駆除してしまったらそこに魚は残らない」
実にあっさりとそんな科白が記事に載せられているよなぁと思ってしまう。
じゃぁ、その一方でダムの反対運動に加担するかのような記事を書き、個別の記事でも河川環境の大切さを訴えるのはなぜ?
屈斜路湖ではアメマスの放流歴がないにもかかわらず、アメマスが戻ってきた、ということを記事にしていたのでは?
長く釣りをやっているのであれば、以前よりも魚が釣れるようになったと実感できる川は少なからずあるんじゃないだろうか?それは、多少なりとも、地元や保護団体などの活動の成果ではないのか?
魚道の荒廃を憂いている記事を散々書いていながら、ブラウンの記事ではなぜあきらめきっているような書き方をするのだろう?
不思議だね。河川環境を取り戻そうとは思わないのか?
穿った見かたになるかもしれないけど、『ゾーニング』という、まことしやかな単語を使ってはいるものの、河川環境を取り戻すことよりもブラウンを駆除させないことを優先しているように感じてしまう。
『ゾーニング』の前提として水系の分断があるように見える。戸切地川で言えば、上磯ダムを境にして魚の往来を阻止しないと、ゾーニングは不可能に思える。
読むたび、そこに大きな矛盾を感じてしまうのは俺だけかな?
関連記事